失敗しない投資信託
infomation
クローズド期間とは?
投資信託は原則いつでも換金できるが、中には新規に設定して運用が安定するまでの一定期間は解約を制限しているものも多い。この期間をクローズド期間と呼ぶ。ただし、クローズド期間中に受益者が亡くなった場合や止むを得ない事由があった場合は、買取請求で換金できる。
外国為替のオルドス地方に拠ってハーンを称していたボルフ・ジノンが死去し、モンゴル唯一のハーンとなったバト・モンケは、ダヤン・ハーンを称する。彼のハーン号「ダヤン」は、クビライ王家の国号である「大元」がモンゴル語に取り入れられたものと言われ、ダヤンの元王朝の再興を目指す意志をあらわすと解されている。
具体的には、奴隷王朝(1206年〜90年)、ハルジー朝(ヒルジー朝)(1290年〜1320年)、トゥグルク朝(1320年〜1413年)、サイイド朝(1413年〜51年)、ロディー朝(1451年〜1526年)の5王朝を指す。ロディー朝のみアフガン系で、あとはトルコ系の王朝である。なお、ムガル帝国のフマーユーンを破り、北インド一帯を1540年〜55年にかけて支配したシェール・シャーのスール朝(Sur)をデリー・スルタン朝として数える場合がある。
全てのモンゴル諸部を支配下においたダヤン・ハーンは、1488年には早くも大軍を率いて中国の北辺を侵したのをはじめ、たびたび明を脅かした。1510年にはモンゴル高原西部で勢力を持っていたオイラトのイブラヒム・タイシを破り、オイラトを屈服させる。
FXは26歳年長[2]のマンドフイ・ハトンとの間に設けた7人をはじめ、何人かの皇妃との間にあわせて11人の男子を設け、それぞれをモンゴル高原の各地に遊牧するモンゴル諸部の部族長のもとに婿入りさせた。ダヤン・ハーンのもとで、ハーンの諸子を君主として頂くようになったモンゴルの諸部は6個のトゥメン(万戸)に再編され、ハーンを頂点として統合された。ダヤン・ハーンの11人の息子のうち9人は子孫を残すが、それぞれは婿入りした諸部の従来の部族長の上に君臨する領主となり、20世紀に至るまでモンゴル貴族の家系として全モンゴルで繁栄することになる。モンゴルにおいて現存するチンギス・ハーンの後裔は、すべてダヤン・ハーンの子孫である。
ダヤン・ハーンの時代にはモンゴルでも長子相続の原則が確立され、ハーンの生前から長男のトロ・ボラトが後継者に指名されていた。しかし、トロ・ボラトはダヤン・ハーンに先立って死去したので、1524年にダヤン・ハーンが死去すると、後継者の地位を巡って王族の間に混乱が起こり、早くもモンゴルの統一は揺らぐことになる。
15世紀初頭、明はベトナムを支配下に置いていたが、これに対し、清化地方丘陵部の小首長黎利(ムオン族との説もある)が挙兵した。長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、1428年に現在のハノイで皇帝に即位。国号を「大越」とした。
FX冷遇して皇帝独裁体制を築こうとした。しかし彼の死後、政権の中枢は黎利とともに対明戦に従事した開国功臣(ほとんどが清化出身)によって占められた。開国功臣は歴代皇帝や彼ら相互に婚姻関係を結び、地方に多くの領地を有する軍事貴族として政権を主導した。前期黎朝の歴史は開国功臣(とその子孫)間の権力闘争が帝位継承争いと結びつく形で推移した。内政面では国内を五道に分け、その下を府県社に分割し地方行政制度を整備すると共に、国子監などの教育面の充実とそれに伴う官吏養成制度を定め、土地台帳や戸籍を整備し公田分配の制度を定めるなど、建国初期の諸政策を実行してる。
1434年に黎利が崩御すると、その次子である太宗が即位した。即位時に僅か11歳ということもあり、当初黎察という人物が摂政に当たっていたが、成人するとこれを退け親政を開始した。また太宗の時代より科挙の制度を確立し、1442年にははじめての進士合格者を登用している。
FXに仁宗が僅か2歳で即位すると、このころより黎朝とチャンパ王国(占城)との紛争が続いた。チャンパとの戦いの中でチャンパ王マハーブシャを捕虜にするなど、軍事的にも充実した時期を迎えた。しかし生母楊氏が太宗の寵愛を失い即位できなかったことを恨んだ黎宜民(仁宗の異母兄)が、1459年に宮城に侵入、仁宗とその生母黎氏を殺害して自ら帝位に即くという事件が発生した。ここに黎朝朝廷に混乱が生じたが、1460年には阮熾や丁列などの勢力が黎宜民を廃し、太宗の第4子である聖宗を擁立している。
聖宗の時代は明との友好関係が維持されたのに対し、チャンパとの対立が深まった時代である。1470年にチャンパ第15王朝第2代王であるバン・ラチャトアンが化州に侵攻、これに対し聖宗は25万の軍勢による親征を実施、チャンパの首都であるヴィジャヤを攻略、ラチャトアンを捕虜にし、チャンパ王朝を隷属させることに成功している。この他ラオスに存在したランサーンの攻略も行いその他律令制度の整備などによって繁栄を迎えた。聖宗は抗争で疲弊した開国功臣勢力と自らが取り立てた科挙官僚群とのバランスの上に立って主導権を回復・維持した。しかしその繁栄も続かず、次代の憲宗が早世し、その子である粛宗、威穆帝が相次いで即位したが、国勢は下降線の一途をたどった。
特に威穆帝の暴虐ぶりは明使である許天錫から「鬼王」と記録されるほどであり、この事態に1509年、従弟の黎?を中心とするクーデターが発生し、黎?は襄翼帝として即位した。しかし襄翼帝も即位後は享楽にふけり、宗室を殺害するなどの暴虐を尽くしたことから反乱が続発、1516年に殺害され、続いて昭宗が即位することとなった。
この時期になると朝廷内の権臣が私兵を以て抗争を繰り広げるようになった。この状況下、昭宗が海陽出身の武人莫登庸(マク・ダン・ズン、M?c ??ng Dung)に朝廷軍の指揮を委ねると、莫登庸の専横が強まり、その専横に身の危険を感じた昭宗は宮城を脱出、西京(清化)の鄭綏の下に身を寄せた。
莫登庸は昭宗追跡の軍勢を差し向けると同時に、昭宗の弟恭皇を擁立した。こうして恭皇を推す莫登庸と、昭宗を推す鄭綏の間での抗争となった。この抗争は莫登庸が有利に戦いを進め、1525年には昭宗を軟禁して1527年にこれを殺害するとともに、恭皇に禅譲を迫り、ここに黎朝は滅亡した。
莫登庸により黎朝は滅亡したが、黎朝の旧臣であった阮淦は1532年に黎寧(荘宗)を擁立して反莫運動を展開、翌年には黎寧を皇帝に即位させ黎朝の再興を唱えた。武力による莫朝との対立以外にも、明朝へ鄭惟?を遣使し、黎寧のベトナムにおける正統性の承認を求めるともに、簒奪者である莫登庸への問罪を求めている。
後期黎朝の実権は阮淦が掌握していたが、莫朝の降臣に暗殺され、娘婿の鄭検が跡を継いだ。これ以降、黎朝の実権を掌握する鄭氏と莫氏との間で内戦が続いた。1529年、鄭検の子である鄭松が実権を掌握すると間もなく、ハノイを奪取した鄭松は莫朝の君主である莫茂洽を殺害、ここに黎朝の再興(後期黎朝)が実現した。
しかし後期黎朝は黎氏の帝位こそ回復したものの、その実権は鄭氏の手中にあった。莫黎戦争を通じて黎朝は完全に鄭松により掌握された。1599年には英宗を殺害し、その第5子である世宗を擁立して自らは平安王となり、世宗が崩御すると敬宗を擁立するも、1619年にはこれを殺害し神宗を擁立している。また鄭松の後継者である鄭?は南明から副王に封じられ、またその子の鄭柞は西王を自称するなど、北部東京(東都、現ハノイ)を拠点として実質的な統治者となっていた。
鄭氏が莫朝と死闘を繰り広げる間、阮淦の息子阮?は鄭検から身を守るため、当時辺境だった順化(現クアンビン省〜トゥアティエン・フエ省)・広南(現クアンナム省・ダナン以南)の地方長官として赴任した。以降、富春(現フエ)を拠点に現在の中部ベトナムで地歩を固めて半独立政権(広南阮氏)を作り上げたが、1592年に鄭氏がハノイを攻略した後には一門を率いて北上、莫氏残党鎮圧に活躍するなど、鄭氏と表だって対立することはなかった。阮?が没し、その子阮福源の代になると、鄭氏と広南阮氏との関係は急速に悪化した。17世紀を通じて両者は7度にわたって激突した(鄭阮戦争)が、決着を見ることなく休戦状態に入った。
1771年に南方を支配していた阮氏に対する西山の乱が発生、阮氏勢力が滅ぼされると、黎帝の実権回復を唱えるその軍は、一族内の内訌により政情が動揺していた鄭氏討伐に向かい、1786年に鄭氏勢力を滅亡させた。なおもハノイで虚位を保持していた昭統帝は1788年、西山朝の影響力を排除しようと、清朝の援軍を得て反撃に出たが、阮文恵率いる軍に敗れて清に亡命、これにより黎朝は滅亡した。