失敗しない投資信託
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基準価額とは?
それぞれの投資信託の価格で、株式でいう株価のようなもの。ファンドに組み入れられている株式や債券などの純資産総額を受益証券の総口数で割って算出した1口当たりの額で、ファンドの評価額がその日いくらかを表す。設定当初は1口当たり1万円(1口1円の場合は1万口当あたりの価格で表示される)でスタートし、以後は運用によって価額が変動する。
商品先物取引はポーランドからハンガリーまで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらにギリシャ語で地獄の住民を意味するタルタロスに重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ言い方が長く残ることになる。
例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に中国で清を立てた満州人はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を関する民族が英語圏で言及されるとき、Tatars ではなく Tartars と綴られることもしばしばである。延いては黄禍論の淵源と見なしうる。
投資信託の諸政権のうち中国とモンゴル高原を支配した元は、1368年に北へ逃れて北元となったが、やがて1388年にクビライの直系のハーンが殺害されてクビライの王統が断絶し、モンゴル高原東部の諸部族がオイラト部族連合を形成してモンゴル部族連合から分裂した。
こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国の明ではこのうちのモンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった「韃靼」と呼ぶことになった。このため明代に記された史料や明朝の正史『明史』では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。日本では、明代の表記に従って、伝統的に明代モンゴルのことを韃靼、あるいはタタールと呼んだ。この名称の変化から、当時のモンゴル高原の形勢であるモンゴルからのオイラトの分立とモンゴル・オイラトの対立が、モンゴル部族連合がタタールとオイラトへ分裂し、対立したとして誤って理解されることも多い。
外貨預金と自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む女真(のちの満州人)はモンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼びつづけていた。のちに明に代わって満州人が立てた清は韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は「韃靼」から「蒙古」に戻った。
日本では江戸時代頃は北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでおり、清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んでいた。中国や朝鮮では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを「韃虜」「韃子」などと蔑称することがあった。
のちにダヤン・ハーンとなるバト・モンケは、チンギス・ハーンの末裔として15世紀当時のモンゴル高原においてハーンになる資格を唯一有する家系とみなされたボルジギン氏に生まれた。しかし、彼以前の時代には、後述する政治的混乱のためにチンギス・ハーン一族の記録や伝承が混乱しており、バト・モンケからチンギスに至る系譜は確実ではない。ただ、傍証やのちの時代の系譜書から、歴史家は彼が元のクビライの後裔にあたると考えている。
チンギス・ハーン以来、モンゴルではボルジギン氏、特にチンギス・ハーンの末裔を君主に建てるチンギス統原理に基づき、代々チンギスの末裔がハーン位についていた。しかし、16世紀に砂北で勢力を強めていたオイラト部のエセン・タイシがモンゴル王族を皆殺しにし、ハーン位につくなど、一時期、チンギス統原理は崩れた。
CFDの生き残りであるバヤン・モンケが、1452年にオイラトのエセン・ハーンが義兄であるモンゴルのトクトア・ブハ・ハーンを殺害してモンゴルの王族を皆殺しにしたとき、母がエセンの娘であったために殺害を免れ、バト・モンケはその王子として生まれた。かくして、ダヤン・ハーンはチンギス・ハーンの血をひくほとんど唯一の王族となった。しかし、幼くして里子に出されたともいわれ、そのため王族ではあったが政治的には全く注目されていなかったとされる。
17世紀半ばにサガン・セチェンが著した『蒙古源流』によると、バト・モンケは、上述のトクトア・ブハ・タイスン・ハーンの次男であったアクバルジ晋王の嫡子ハルグチャクの息子バヤン・モンケ・ボルフ晋王(ジノン)と、ウルウト部出身のシキル太后(ハトン)の息子と伝えられる。
スマトラ島南部のシュリヴィジャヤ王国の王子であったパラメスワラはマジャパヒト王国の侵攻を逃れてマレー半島を転々とし、1402年頃マラッカ海峡の「オラン・ラウト」と呼ばれる海の民の協力を得てマラッカに建国した。
当時は小規模な 漁村であったが、おりしも明の永楽帝が派遣した第一次鄭和艦隊が来航した。南シナ海とインド洋での通商覇権をめざす鄭和艦隊はマラッカを根拠地とすべくパワメスワラを招撫した。これに応じてマラッカは明に何度も朝貢使節を送り、その忠実な朝貢国となる。パラメスワラはまたイスラム商船の来航を促すため、イスラム教に改宗もした。
不動産投資の鄭和艦隊の保護下でマラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始めた。この間、パラメスワラを始めイスカンダル・シャー、モンハメド・シャーは鄭和艦隊に同乗して何度も中国を訪れている。
当初マラッカの競争相手は北スマトラのイスラム港市であったが、ムザッファル・シャーがイスラムを国教と定め、またタイのアユタヤ王朝の侵攻を撃退してマレー半島全域やスマトラ島東海岸に勢力を拡大すると次第に東西貿易の中継港として繁栄するようになった。
次のマンスールはマラッカ国王として初めてスルタン号を称し、アユタヤの属国であったパハンを降し、ジャワ島北岸に成立したデマク、ジャパラ、トゥバン、スラバヤなどのイスラム港市と協力してマジャパヒト王国をさらに弱体化させた。
第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世は短く、26歳で毒殺された。その子マームドは幼くしてスルタンに擁立されたが、大臣に有能な者が多く、交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。当時、インドのグジャラート人ムスリムがもっとも重要な貿易相手であり、南インドのタミル人やジャワ島人がこれに続いた。当時の中国は海禁政策に戻っていたが、禁令破りの中国人密輸商人も多数来航している。交易の内容はインドの綿織物をモルッカ諸島の香辛料やスマトラ島の金と胡椒、中国の絹と陶磁器、チモール島の白檀などとの交換である。王国には来航する商船が入港税を払った。
琉球王国の外交文書を記録した『歴代宝案』によれば、琉球国王・尚徳は1463年マラッカに貿易船を発遣し、マラッカ国王(スルタン・マンスール)への書簡を託して同船の交易の便宜を図ってくれるよう依頼、絹織物・腰刀・扇・青磁器などの品を送った。この時の琉球使節は正使・呉実堅、副使・那嘉明泰であった。その後も琉球から満刺加国王宛の書簡は度々記録されており、1470年マラッカのスルタンも琉球船に書簡を託し、琉球国王に礼を述べるとともに綿織物(インド木綿)などの品を贈った。歴代宝案に記録された琉球国王からマラッカ宛の書簡は合計20件に達し、1511年で終わっている。
16世紀になると喜望峰経由でインドに来航していたポルトガル人が東方に目を向け、香辛料の原産地であるモルッカ諸島を押さえようとしていた。そのためには中継地となるマラッカはどうしても必要な港であった。
1509年ディオゴ・ロペス・デ・セケイラの率いるポルトガル遠征隊がマラッカに初めて到着したが、当時インド洋でポルトガルの海洋覇権と対立していたイスラム系商人が扇動したため、王国はポルトガル人と対立し、ポルトガル艦隊は何人かの捕虜を残してインドに帰った。この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年、18隻の艦隊と800人のポルトガル人兵士を率いてマラッカ征服に来航、数ヶ月の攻防戦の後マラッカはついに陥落した。
スルタン・マームドはマレーの密林の中に逃れ、その子孫はジョホールなどマレー各地のスルタンとなった。
1479年、エセンの死後にハーンとなっていたマンドールン・ハーンが崩御したとき、彼に後継ぎがいなかったため、ハーンが空位となった。このとき、ホルチン部の君主ウネバラトは自らがチンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの子孫であることから、マンドールン・ハーンの未亡人と結婚すればハーン位を得られると考え、オングト部出身の皇后マンドフイ・ハトンに求婚したが、マンドフイはチンギス・ハーンの子孫の生き残りであるバト・モンケが民間で暮らしていることを持ち出して断り、1480年に16歳となっていたバト・モンケと結婚した。